4,000枚を超える膨大な収録写真の中から、ごく一部を野上眞宏による写真解説付きでご紹介します。
親父がペンタックスSPというTTL露出計の付いた最新鋭一眼レフを買い、さらにこの頃400mmの超望遠レンズも買った。文京区大曲の親父の会社の屋上から撮影してみた。
目白通り江戸川橋方面。当時のカメラ雑誌には望遠レンズの効果を強調している作例がよく見られたので、それを真似てみた。
高校3年だった1965年の夏に、立教高校とワシントンDCのセント・オルバン・スクールが姉妹校になり初めての交換学生プログラムに参加した。
いまだにこの鳩が飛び立つ瞬間が目の中に残っている。多分この写真を撮った時、写真を撮るという手応えを感じたんだと思う。あてもなく歩いていると、次の角を曲がるとどんな風景や世界があるのだろうか・・・と思う。
この撮影の前日の夜に、ディスコ「コッチ」に箱で出ていたバーンズを聴きに行き、閉店までつき合った。閉店後ぼく達(細野晴臣、松本隆とぼく)は、しばらく深夜の東京を徘徊したあとで、文京区関口町にあったぼくの自宅に行った。
そういう気分だったのか、ぼくは押入れに長いことしまってあったニコンFを取り出して、写真を撮ろうかと言った。大学1年の時に写真部に入っていたのだが、面白くなくてやめてしまい、そのままになっていたのだ。松本は「ねえ、細野さんそうしようよ」と言った。表に出ると珍しく朝霧が出ていた。
近くの東京カテドラル教会の前でまず何枚か撮った。
細野が着ているのはぼくのシャツ(ブランドはエドワーズ)。細野の方がスラッとして良く似合っていたので残念な気持ちだった。
霧が珍しかったので、そのまま銀座に行った。
ソニービルの1階の「カーディナル」なら早朝に開いていてコーヒーを飲めると思い、この店を目当てに来たんだけど、まだ閉まっていた。当時、朝早く開いていてコーヒーが飲めた店はほんとに少なかったと思う。
ソニービル前で、細野晴臣と松本隆。
以前、松本隆のバーンズが、ヤマハのコンテストでシャドウズのカヴァーをやり3位になっていた関係で、日本橋の交差点にあった東急デパート(1999年1月に閉店)2階でヤマハ主催の催し物『ヤマハ・ナチュラル・サウンド・フェスタ』に出演した。
前の日の朝に銀座で撮ったのがきっかけになって、「演奏している写真も撮ってあげよう、きっと彼らの青春の良い思い出になるに違いない」と思った。ニコンFに28mm/f3.5、105mm/f2.5、それにチャージタイムが15秒以上ある古いストロボをカメラバッグに詰め、ロイヤル・スチュアート柄のボタンダウン・シャツに自分で細くしたリーバイスのブラック・ジーンズをはいて出かけたのを憶えている。
左から、ファン?(ガールフレンド)にもらった花束に喜ぶ小山高志、細野晴臣、松本隆。
松本隆は慶應大学で、「風林火山」に所属していた。「風林火山」はコンサートなどを企画する大学のクラブだが、プロ顔負けの実力で、彼らの主催するイヴェントはとても人気があった。このクラブのメンバーには、景山民夫や、松本の先輩でのちに小坂忠の奥さんとなるペンさん(高叡華)もいたりした。なぜかペンさんとはすぐに友達になれた。
ぼくはペンさんからコンサートのパンフレット用の写真を頼まれ、バーンズ(メンバー構成は同じだが、この時の名前は、アンティック・マジシャンズ・アンノウン・バンド)や景山民夫がベースを弾いていたフォーク・グループ、モダン・フォーク・フェローズなどの写真を撮った。
アンティック・マジシャンズ・アンノウン・バンド。左から、松本隆、細野晴臣、小山高志、伊藤剛光。
エイプリル・フールのレコーディング。初めてレコーディング・スタジオの中を撮影した。レコーディングは、テイチクスタジオで行われた。
細野晴臣の手もと。
ミュージカラーレコード社内で、小坂忠と柳田ヒロ(左)。エイプリル・フールのメンバーは、事務所に一応毎日出勤していた・・とは言ってもソファの上でダラダラしていただけだったけど・・・・(笑)。 ミュージカラーレコードは、レコード盤に写真やイラストレーションを印刷するピクチャー・レコードの会社として有名だったが、エイプリル・フールのマネージメントもしていた。ピクチャー・レコードはフローラルが出していて、けばけばしいノベルティーなイメージがあったので、エイプリル・フールのレコードを発売するにあたっては(1969年、コロムビア)、メンバー達は、あえてノーマルな黒のレコード盤にこだわった。
エイプリル・フールのレコード発売を記念して開催されたこのコンサートは、同時にエイプリル・フールの解散記念コンサートでもあった。ぼくはこの日、サイケデリック・ライティングを担当、舞台の袖からオーバーヘッド・プロジェクターでアメーバをやった。撮影の用意もして行ったのだが、ライティングで忙しかったので、残念ながらエイプリル・フールのステージの写真はない。
本番前、ニッショーホールのロビーに、ゲスト・バンドのブルース・クリエイションのヴォーカル、布谷文夫がいたので、撮らせてもらった。
新宿花園神社近くにあったディスコ「パニック」に遊びに行った時の柳田ヒロ。この年の夏頃、「パニック」ではエイプリル・フールが箱バンドとして連日演奏していた。そのせいで、スーパーバンド、エイプリル・フールの噂を聞きつけたいろんな人がこの店を訪れるようになった。
エイプリル・フールの演奏の休憩時間に、ヒロと一緒に近くのライヴ・ハウス「アップル」に出演しているパワー・ハウスを観に行ったりしていた。「パニック」はエイプリル・フールのメンバー各々の新たな交流の始まった場でもあった。
エイプリル・フールが解散した10月以降にも、たまにヒロと「パニック」に遊びに行くことがあった。この写真はそんな時の1枚だ。
新し物好きの親父が買った魚眼レンズを、さっそく試してみた。文京区関口町の自宅玄関前で、どこかの猫。母は大の猫好きであったが死んでしまうのに耐えられず、この頃猫を飼っていなかった。
この日、松本隆、大瀧詠一、鈴木茂、細野晴臣からなるヴァレンタイン・ブルーが、都市センターホールで開催された『IFC前夜祭』に出演した(IFC=インターナショナル・フォーク・キャラバン)。寒い日だった。客の入りもイマイチだった。ヴァレンタイン・ブルーは細野らしい名前だと思ったが、この年4月のレコーディングの時に、バンド名を「はっぴいえんど」に変えた。ひらがなで「はっぴいえんど」というのは衝撃的だった。
楽屋で。左から、大瀧詠一、細野晴臣、鈴木茂。
11月に新人モデルとして紹介された鈴木ユキ子さん。銀座でモデル撮影の練習をさせてもらいました。彼女はデビューしてすぐ売れっ子モデルになってしまっていた。
白金にあった細野の自宅の中庭で撮影。ザ・ピーナッツとクレージーキャッツの人気番組『シャボン玉ホリデー』に出て来るハナ肇風オヤジコスプレをして遊ぶ細野晴臣。タイトなブラック・ジーンズやスリムなシャツが若者の定番だった時代に、おじいさんのだぼだぼズボンとラクダのシャツを着て、古い傘をステッキ代わりに持ち、楽しく撮影してみた。
日本のロックにとって記念すべきアルバムとなった『はっぴいえんど』(発売は、1970年8月)の制作にあたって、メンバー達は、まず自分の思っているロック・ミュージックの探究、それに日本語をのせるというチャレンジ、全曲オリジナルということにこだわったのはもちろんであるが、もう1つ録音そのものの質を高めることにも熱心だった。
鈴木茂。
細野はエイプリル・フールの録音のずっと以前から、本場アメリカのレコーディングに比べて劣っている日本の録音に不満を抱いていた。素人のぼくにも理解できる範囲で言うと、ヴォーカルの音が前に出過ぎて歌と演奏との一体感がない、ドラムの音が軽過ぎて心に訴えるズシンとした感じがない等があった。欧米録音のロックと歌謡曲中心の日本のレコードのサウンドの違いは明白であった。
松本隆。
細野にとってこのレコーディングは、エイプリル・フールに続く2回目だったので、今度こそなんとか思い通りの音作りを成功させようという意気込みであり、関係者一同と相談しつつ、あちこちに工夫が見られた。
細野晴臣。
ぼくにとってもエイプリル・フールのレコーディングから1年、あの時の撮影は露出不足できれいに撮れなかったので今回は慎重を期して撮影。当時はフラッシュなしでの室内撮影はかなりキツかった。
大瀧詠一。
この頃、現像液にいろいろ混ぜ物をして現像ムラを起こし、偶然に面白いイメージができるのを期待したこともあった。ほとんどは失敗でやらなきゃよかったというものばかりだったが、これは面白く上がった例。
柳田ヒロ。
ある日、松本隆と新宿に写真を撮りに行った。
ゴールデン街で、松本隆。
シブヤ西武屋上で、はっぴいえんど出演の『MAYカーニバル』があった。
フォークを歌っていた頃の加藤和彦。ドノヴァンのようだった。彼はバッファロー・スプリングフィールドについては「あのファズの音がいいよね」と言っていた。
雨が降って来て一時中断。屋上の隅にあったステンレスのテーブル?に映るはっぴいえんど。左から、鈴木茂、大瀧詠一、松本隆と、座っている細野晴臣。
結局日の目を見なかった、小坂忠と柳田ヒロのデュオ・アルバムのレコーディング。
小坂忠。
当時有名なモデルさん・タレントの松本洋子さんに『アン・アン』風のスタジオ写真撮影をお願いした。洋子さんはチャーミングなだけじゃなくて、とても優しい人で、気安く請け負ってくれた。とってもとってもうれしかった。
フード・ブレインのレコーディングに行った。フード・ブレインは、ギターの陳信輝、キーボードの柳田ヒロ、ベースの加部正義、ドラムスのつのだひろの4人からなる。彼らのファーストで最後のアルバムでもあるこの『晩餐』は、日本のプログレ・ロックの最高峰とも言われている。また、ヒロは「当時の日本ではプロデューサーの存在や役割がはっきりせず、『晩餐』もそうだが、大体がバンドのセルフ・プロデュース」と言っている。
加部正義。
ヴォーカリスト・小坂忠のソロとしてのファースト・アルバム『ありがとう』は、マッシュルーム・レーベルの第1弾として制作された。このレコーディングには、はっぴいえんどから細野晴臣、松本隆、鈴木茂、他に大野克夫などが参加した。このモウリ・スタジオでは、この後『風街ろまん』が録音されている。
ミッキー・カーチス。
小坂忠再起のコンサート。アルバム『ありがとう』の曲を初めて演奏した。出演していたミュージカル『HAIR』の公演も終わり、1970年からの忠の音楽シーンでの空白をきっちり埋めた初のソロライヴだった。それまでとは打って変わってのカントリータッチで、ジェイムス・テイラー風のサウンドと心に響く美声との相性は抜群だった。
小坂忠。
『ハイファッション』という雑誌の撮影で。お茶目な鋤田さん。脇にあるコカ・コーラ2本は鋤田さんの演出。
はっぴいえんどのセカンドアルバム『風街ろまん』の裏ジャケットの写真用に、狭山に撮影しに行った。この撮影の2か月後、1971年11月にアルバムは発売された。
「フジペット」(今でいうロモのようなトイカメラ)で撮影した。1960年頃、母が小学生の妹用に1980円で購入したプラスティック製レンズカメラで6×6cmサイズのフィルムを使用した。非常に簡単な作りで、ワン、ツーで1度目にシャッターがチャージされ2度目にシャッターが切れた。次のフレームに進むのも手動であったのでよく間違って二重露光をしてしまうこともあった。描写は中心はある程度シャープだが、端の方はボケボケの上に歪曲している。それに加えてレンズが曇っていたが、かえって良いアジが出た。この場合のようにドリーミーでノスタルジックな雰囲気を出したい撮影に利用した。
撮っていると、なんだか脇の方に人がいるらしく、細野が変顔をした。
撮影していたら、子供が近寄ってきた。米軍家族の子供達だ。左から、細野晴臣、大瀧詠一、松本隆、鈴木茂。
「WORKSHOP MU!!」のリビング・ルームで。左から、大瀧詠一、鈴木茂、細野晴臣、松本隆。
宮谷一彦さんのリクエストにより、急遽アートセンターで『風街ろまん』のジャケット絵の土台となる4人の顔のアップの写真を撮った。この時は絵の下地となるような写真という意識があったので、1人ずつの写真だった。あとで、ビートルズやバッファロー・スプリングフィールドみたいに1枚の写真で4人揃ったはっぴいえんどの写真を撮っておけばよかったなあと思った、スタジオで撮ったはっぴいえんどはこれが最初で最後だった。
石浦くんを挟んで記念写真。左から、細野晴臣、松本隆、石浦信三、鈴木茂、大瀧詠一。
はっぴいえんどのギグで、どこであるか不明であったが、このアプリ制作時に大瀧氏に見せたところ「B.Y.G」であることが判明。左から、松本隆、大瀧詠一、鈴木茂。
表参道であったデモ。原宿駅近くの歩道橋から、明治通りの交差点方面に向けて撮影。
香港で買ったライカM4ブラックとズミルックス35mm/f1.4と雑誌。この雑誌はなんだか憶えてない。当時読んでたのはコミック以外では『平凡パンチ』、『アン・アン』、『メンズ・クラブ』、『ハイファッション』・・くらいだと思うけど。
鋤田さんの事務所によく遊びに来ているモデルのジュリー・ハンドレーさんに撮影をお願いした。原宿から遠足気分で狭山までドライヴ、2時間。
大好きなハリウッド40’s映画のスチル写真のような写真を撮りたかった。今で言うフィルム・ノワールに出て来るような女優さん風の写真。
最初は奥村靫正の部屋で撮影。色はスライドが褪色してしまったのか違う。バスローブはえんじ色だった。
カフカ的な建物だと思った。
目黒雅叙園で行われた細野晴臣夫妻の結婚披露宴。「ぼく達は、一緒に’はっぴいえんど’というフォーク・ロック・グループをやっています」という大瀧詠一の挨拶のあと、歌をお披露目。中央左から、鈴木茂、大瀧詠一、松本隆。松本隆の右隣に細野氏のお父様がちらっと見える。
ちょっと森山大道さん風に撮れた。
ぼくにとってはその年2回目のグアム島ロケ。
ホテルのプールサイドで、くつろぐ高橋靖子さん。日本で最初のスタイリストと言われるヤッコさんは、ぼく達アシスタントにもリスペクトを持ってちゃんとお話してくれる人だし、何よりも屈託のない明るさは一緒にいることを豊かにしてくれる。
ファースト・アルバム『大瀧詠一』(発売は、1972年11月)のために撮影。大瀧氏の希望は都会と自然が一緒になっているような所で撮影したいということでした。
ぼくのコンセプトはすでにできていて、狭山のアメリカ村で撮ろうと思っていた。それで狭山に行く途中にある関越自動車道で、大瀧氏希望のシチュエーションの写真を撮ることにした。
大瀧詠一。
細野宅の「寝図美(ねずみ)」という名の猫。細野は寝図美を遠藤賢司から譲り受けた。
芝の郵便貯金ホール。この日、はっぴいえんどは小坂忠とフォージョーハーフと共演した。珍しいツードラムの楽しい演奏だった。のちのティン・パン・アレーの始まりのようでもあった。この賑やかなステージで、1970年から始まったぼくのはっぴいえんどの写真は終わる。
細野晴臣と鈴木茂。
この年11月に出版される松本隆の初エッセイ集『風のくわるてつと』用の撮影より。
六本木のコーヒーショップ「ハニー・ビー」で、松本隆。
細野晴臣は、はっぴいえんどの3枚目でラスト・アルバムとなる『HAPPY END』(発売は、1973年2月)のためのロサンゼルス・レコーディングを終えた。そして、自宅でくつろぎながら、「はっぴえんどは、終わったよ。大変だった。嵐をしのいだ船長のような気分」と言った。
年末から年始にかけて、鋤田事務所、デルタモンド、サムシングの社員達でアメリカ・ウェストコースト・ツアーがあった。ぼくは、その年の8月で鋤田事務所を退社していたが、鋤田さんの特別なはからいで参加させていただいた。1965年の夏に行って以来久しぶりのアメリカ本土旅行であった。
当時のお気に入りの1枚。微温い雨の中、小型ストロボを点灯して撮影。
東京郊外の狭山アメリカ村を、ニューヨークから車で3時間のアップステートのウッドストックに見立て、自宅にレコーディング機材を持ち込んで細野晴臣の初ソロアルバム『HOSONO HOUSE』のレコーディングは始まった。「船長さんは本当にしんどかった」と、はっぴいえんどの顛末を振り返っていた細野だったが、1972年12月の解散発表後、鈴木茂に加えて、小坂忠のフォージョーハーフから、ドラムスの林立夫とキーボードの松任谷正隆を誘い、このレコーディングがきっかけでキャラメル・ママとなる最強のバンドを誕生させた。鈴木茂同様、林立夫とはすでに学生時代の『PEEP』以来6年の付き合いで、気心も充分に知れていた。
林立夫と細野晴臣。
「ろっかばいまいべいびい」のピアノ・バージョン録音。細野晴臣。
『HOSONO HOUSE』(Cover Designed by WORKSHOP MU!!)のためのフォト・セッションより。
細野晴臣。
アメリカ村に引っ越して来た吉田美奈子。猫と、自宅リビングで。
佐藤忠敏がサンフランシスコに10月から引っ越していた。佐藤のアパートは、サンフランシスコ市の西側で、海岸から2〜3ブロックの所にあった。早起きして太平洋側のビーチを散歩。
早朝の海岸の犬。
LAダウンタウンのビルの前にひっそりとパークしている白い車。60’sな風景。
リトル・フィートの4枚目のアルバム『Feats Don’t Fail Me Now』の発売にあたり「トゥルバドール」でコンサートがあった。ローウェル・ジョージ。
「トルヴァドール」でぼくをノックアウトしたマリア・マルダー。登場した途端に虜になってしまうカリスマ的色気!「真夜中のオアシス」の大ヒットのあと、次のアルバム『ドーナッツ・ショップのウェイトレス』の時。
1976年の3月にジョージタウン大学でパティ・スミスのコンサートがあった。最初のアルバム『ホーセス』のツアー。パティ・スミスは歌うと言うより詩を朗読している、読んでいてそれを旋律に乗せているという感じが強かった。ライヴでの空気中をビンと伝わって来る強い声や存在感に深い感銘を受けた。
1978年7月ソーホーのグリーン・ストリート。
この年の11月からニューヨークに引っ越した。その年の初夏にニューヨークで彫刻家の友人を通じて陽子と知り合い、あれよあれよという間に急接近し、11月には、ニューヨークの彼女のアパートに移り住むことになったのだった。そして翌年の1979年4月に日本で結婚した。
1979年の11月にYMOのニューヨーク公演があった。日本人がアメリカでツアーするなんて坂本九の1963年以来久しぶりなんじゃないか、細野すごい!と思った。
1979年11月1日、クラブ「ハラー」で、左から、坂本龍一、高橋幸宏、細野晴臣。
1979年11月6日、「ボトムライン」での高橋幸宏。
坂本龍一。公演は大成功であった。だが、パンク、ニュー・ウェイヴの勢いが強かった当時のニューヨークでは、YMOのコンセプトは充分には理解されなかったと思う。
当時の「ダンステリア」はポピュラーなベニューでよく遊びに行っていた。プラスチックスのステージ。左から、中西俊夫、佐久間正英、佐藤チカ、立花ハジメ、島武実。